気持ちデータの観察考察

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映画 「焼肉ドラゴン」の感想文 ー映画と演劇の手法の違いについて

(公開2018年7月・更新2018年9月)

もともと演劇作品である「焼肉ドラゴン」は、読売演劇大賞や鶴屋南北戯曲賞など数々の受賞歴を誇る有名作品なのだが観劇したことなくて、作者の鄭義信自身が監督した映画が封切りされたというので見に行った。

「映画」と「演劇」というふたつの表現方法の違いのようなことについて考えさせられたので、作品の中身というよりも、構造みたいなことを中心に、感想を記録しておく。

 

1、戦後感の追体験

アラフォーのわたしからすると、まず、在日という存在の「追体験」としての意味がある、という作品。
脚本家も、自身の体験を、記録として歴史に残すことにも意味を見出してるのだろうと思える。


舞台は1970年前後。終戦から25年も経ったあとでも、こんなに混沌とした風景なのかという終戦直後感。見渡す限りのバラックで、最底辺の暮らし。でもそれは、日本人であっても、一定はそうなのだろうなとも思った。戦後25年なんて、きっとまだ精神的には終戦直後の延長線なのだ。たとえば今は2018年だけど、25年前というと1993年。こうやって自分たちも生きてきた時間軸ではかりなおしてみると、やはりたった25年前くらいだと“少し前の時代”という程度の距離感だし、文化や価値観や空気感といった根っこの部分はそうそう変わらないものだ。つまり1969年というのは、そういうことだ。

ではどこで、日本は「戦後の延長線上」ではなくなったのか。1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」宣言がなされたことが有名だがあれはGNPが戦前の水準を晴れて上回ったことを象徴したキーワードであって単純にいうと経済的側面から見ただけと言えるので、“精神的な面で”と考えると、実質、昭和天皇崩御の1989年あたりまではまだ“戦後の延長線の空気感”みたいなものはじわじわ残っていたと言えるんじゃないか。バブルがそれらも洗い流したか。

 

2、映画と演劇の違い

「演劇」では表現できるのに、「映画」ではうまくやれないことってなんなのだろうと考えた。

もちろん、“表現手法”としてやれることはまったく違う。フレームワークがそもそも違う。一方は「舞台」だし、もう一方は「レンズ」だ。

でも、手法が違えども、“作品として描きたいこと”自体は変わっているわけではないはずだ。

なのに、映画を鑑賞していると「演劇作品の時に描かれていたメッセージは、なにかもう少し違うことだったんじゃないかな」と感じさせるような、少し焦点がぼやけたような感覚が映画作品の読後感には残った。

監督の本職は演劇畑で、映画は不慣れな分野と認識している。「映画に置き換える過程で、本質を何か損ねてしまっているのではないか」という予感がする。そんなことってあるのだろうか。そりゃああるんだろう。比較的似たアウトプットに見えるが映画と演劇は違うものだ(と、今回の鑑賞を通じて考えさせられた)。ゴッホが絵画でなく文章を駆使して南フランスの強い太陽と麦畑の美しさを小説家としても絵画作品並みに伝えられるか。

とはいえわたし自身が演劇作品のほうを観ていないので、観劇か戯曲に触れてみないと語れないよなと興味がわいた。

 

3、働くこと、生きること

父親のセリフで、「こんな気持ちの良い日は、明日は明るいと信じられる。たとえ昨日がどうであれ」という、作品のキーワードといえる言葉が2回でてくる。亡くなる息子との序盤のシーンと、最終幕で娘たちが巣立っていく背中を見守るシーン。どちらも重要なシーンだ。
いい言葉だし重みもあるのだが、ただ今回の映画作品のなかで聞くと、“少し地面から浮いている”ような感じを受けた。

この父親は、この作品のテーマである「在日の歴史そのもの」である。だからこそ、自らの苦しく険しい人生をバックグラウンドに、このセリフを語るのである。それは、わかる。
でも、このバックグラウンドとなる“苦しく険しい人生観”が作品内で語られるのは、三女が婚約者を家につれてきたときに、父親自身が「古い話だが聞いてくれますか」と切り出した時だが、あそこのシーンもちょっと唐突感があり、最重要であろう在日の歴史としてのバックグラウンドを、このタイミングで会話の一部としてだけで提供するのでは、鑑賞者としては“その歴史の重み”が腹の底まで落ちきらないというか。なんだか急いでしまっているような印象をうけた。(演劇だとどうしているのだろう、と、こういうところでも感じる。)

とはいえ、このシーン自体は印象に残る良いシーンである。そのシーンで父親は「働いて、働いて、働いて」と何度も繰り返す。重要なライフイベントを越えるそのたびに「働いて、働いて、働いて」そして、今がある。

働く。労働する。生きる。

この物語のモチーフのひとつは、この「労働」だ。

それは「生きる」「生き延びる」ということと同義で提示される。

だれもがみな、ぎりぎりの選択肢のなかでどうにか働いている。体を使い、労働をしている。そして生きている。

合わせてもうひとつのモチーフは「家族」だ。

家族のために働く。そして生きる。生かす。生き延びる。自分のためではなく、家族のために働き、それが自分の人生そのものになる。

「生きる」という意志の強さが、作品からほとばしる。これがこの作品の本質だろう。

それはこのシーンからもよく伝わる。

 

4、息子の死の断絶感

ひとり息子は、いじめに耐えかねて自殺をしてしまう。どうすることもできなかったかと家族たちは後悔し、泣き崩れる。

見ているほうも残念に思う。

どう考えても、どうにかできたからだ。

死なせずにしてやれた。登場人物のだれからでもアプローチできたはずだ。

それなのに、止められなかった。あまりにも想定内なことなのに。この自殺への経過もあまりにクリシェだ。なんの意外性もない。

これも、演劇作品だと、こういう表現にはなってないんじゃないかと期待してしまう。

彼の死が、物語の主旋律から分断がちで、連続感が不足している。そこがゆるいせいで、「なぜ彼が作品全体の語り部役なのか」さえも映画だけだと理解しにくいし、エンディングの語りもこの息子による告白で閉じていくのだが、そこにも違和感が残る。

娘3人たちのそれぞれの生き様や、考え方の違い、今後の挑戦など、そちらのドラマはこの映画作品においては主旋律で、丁寧によく描かれている。ただ、その中でも“恋愛要素”が全体的にやや強く、それはそれで問題はないんだけど、そのあおりを受けて、息子の死が浮いちゃってるようにも感じるんじゃないか。恋愛と旅立ちの物語だけで映画が成立しちゃっているというか。

たぶんだけど演劇作品だともっとシンボリックなポジションにこの息子はいるんだろうと思うが、映画だと、それがわかりにくくなっている気がするなと感じた。